ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味(ちくま学芸文庫)

私説:現代人は意識を極力排除することでしか礼拝価値を有する造形物を作り出せない

今回の記事は、先日投稿した「アートトレイスギャラリー「布置を描く」〜集合的無意識の働きによるキュレーションの試み」についての、その後の洞察です。

前回の記事の中で、意識的な作用をできるだけ退けた結果、見た目のバランスが決して良いとは言えない作品のレイアウトになった旨のことを書きました。
このような事態になったのは、もちろん意識的にバランスを整える行為を放棄したからですが、ではこのバランスを整えるような行為は誰のために行うかと考察を巡らしてみました。

アーティストは作品の一番最初の鑑賞者

それは第一に、自分が納得のゆく形で鑑賞者に作品を見てもらいたいからだと考えられますが、そのような目的を可能とするためには、先ずもって作品の制作者であるアーティスト自身が、できるだけ客観的な視点で作品を眺めてみる必要があります。
作者自身が一番最初の鑑賞者と言われる所以です。
またその際アーティストによっては、共感能力を用いて鑑賞者である他者の視点も考慮されることになります。

そして上述のいずれの目的を放棄してしまったのが、前回の記事で行った「作品からエネルギーが注ぎ込まれた模型が配置してもらいたがっている場所を感じ取り、その場所に模型を配置する」という試みです。
またこのような試みにより、ユングが想定した集合的無意識の力が働き出すとも前回想定しました。

私の試みは作品の展示価値をまったく考慮していない行為

以上の考察をヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』の内容と結びつけて考えて見ますと、以下のようになるかと思います。

ベンヤミンは芸術作品の価値を、礼拝価値と展示価値とに分類し、さらに前者について「存在するということだけが重要なのであり、見られることは重要ではない。」(P.596)としています。

このベンヤミンの分類に従えば、私が試みた行為は展示価値、より具体的には作品が鑑賞されることをまったく念頭に置いていないという意味で、幾らかでも礼拝価値に近い性質を帯びていると言えるのかもしれません。

現代人が礼拝価値を有する造形物を作り上げることは困難

もっともベンヤミンが想定している礼拝価値とは、典型的には先史時代の洞窟壁画のような専らシャーマニズムに基づく造形行為であり、それ以外にも当てはまるものとしては芸術や作品といった概念がまだ存在しない中世の時代の宗教的な造形物です。

したがって近代以降に確立した芸術や作品および表現などの概念に慣れ親しみ、かつシャーマニズムや中世の人々のような信仰心を失ってしまった現代人が、ベンヤミンが想定した礼拝価値を有する造形物を作り上げることは、もはや不可能に近いと言えます。

しかしそれでも現代人が少しでも礼拝価値を有する造形物を作ろうと思えば、もう一度シャーマニズムの感覚を取り戻すか、あるいは高度に発達してしまった意識の働きをできるだけ排除し、その結果生じる無自覚な行いの作用に身を委ねるしか方法はないのではないかと考えています。

20世紀初頭にも無意識をアートに活用する試みが存在した

なお、こうした意識の働きを排除する試みは、20世紀初頭にもシュルレアリストによるオートマティズムという形で盛んに行われました。
ただその当時はフロイトの精神分析が社会現象と言えるほどの影響力を誇り、その無意識の概念の影響を強く受けたものでしたが、その理論的背景をユング心理学に置き換えると、その作用は個人的無意識によるものではなく、集合的無意識と呼ばれるシャーマニズムの世界で信じられていた目に見えない自然界の大いなる力ということになります。

これはどちらが正しいというものではありません。心の領域は現代科学をもってしても、未だにブラックボックスであり、分からないことだらけであるためです。

礼拝価値と展示価値 引用文献

『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味(ちくま学芸文庫)』、筑摩書房、1995年