売約済みのアート作品?

主たる鑑賞者をアーティストに定めた架空のアート作品



今回の記事は「多くの人に同じことを連想させる記号ほど、メッセージの強い伝達能力を有する」の続編です。

前回の記事では、赤丸シールがアートワールドに属する人なら誰でも売約済みの作品のサインであることを知っているため、そうしたサインは同一の意味を喚起させる非常に強いメッセージの伝達能力を有していること、およびそのような鑑賞者の知識を想定してアーティストは作品を通して鑑賞者との相互理解を図ることができることを述べました。

今回は同じ架空のアート作品を例に、鑑賞者とのコミュニケーションの別の側面について考察します。

鑑賞者に対する暗黙の前提とアーティストの立ち位置

アート作品は、通常誰かに見られることを前提として制作されます。
そしてその誰かとは、典型的にはアートワールドに属する人々、かつその中でもアーティストの除いた人々です。

なぜなら、原則誰でも入場可能なギャラリーで展示しながら、見ず知らずの人にはあまり来て欲しくない、友達だけに見て欲しいと願う内弁慶なアーティストを除き、それなりの野心を持つアーティストならアートに関心のある人にできるだけ多く見て欲しいと願っているものと考えられるためです。

※ただし現実には、前回の記事で触れましたように、鑑賞者の大多数はアーティスト、もしくはかつてその立場にあった人やアートスクールの学生です。

このようにアーティストの主たる立ち位置は、作品を制作しそれを発表する側であり、他のアーティストの作った作品を鑑賞する側ではありません。

架空のアート作品に対して、アーティストとして嫉妬心を感じる

以上の点を踏まえつつ、記事上部の架空のアート作品の考察に話を移します。

この物体を見たときに瞬間的に私が連想したのは、これまで述べた通り売約済みの作品であることを示すサインというものでした。
しかし続いて次のような思考が脳裏を過りました。

(もしこれが本当にアート作品だったとしたら)こんなその辺にあるモノにただ赤丸シールを貼ったものがアート作品とみなされ、しかも2点も売れているなんて不公平だ。

つまり、自分の作品がなかなか売れないこともあって、とても安易に制作されたように思える作品が評価され、かつ簡単に売れていることに、アーティストとして嫉妬心を感じてしまったのです。

補足)私見ですが、デュシャンの『泉』に対する当時のアートワールドの人々の反発には、美学・芸術学的な観点からだけではなく、こうした嫉妬心も少なからずあったのではないかと考えています。

主たる鑑賞者をアーティストに定めたアート作品

もし仮に、この私の反応が制作者の意図通りのものであったとしたらどうでしょう?
その場合、このアート作品はいわば同業他者である他のアーティストに嫉妬心を感じさせることを狙いとして制作されたことになります。

だとすれば、これまで述べた鑑賞者に対する暗黙の前提とは異なり、この作品は主たる鑑賞者をアーティストに定めていたことになります。

ですからこの架空のアート作品は、鑑賞者に対する暗黙の前提(=常識)に挑戦ものにもなっていると言えそうです。

前回の記事も含めて以上の2点が、何気なく赤丸シールが付けられたお手拭きを見て考えさせられたことです。